

筑紫の各地に伝説を残している「三韓征伐」の物語の主人公で、「古事記」「日本書紀」に記載されていることによると、名は「オキナガタラシヒメ」。仲哀天皇の皇后として熊襲討伐のために筑紫に下ったが、天皇の急死により武内宿禰(たけうちのすくね)とはかって、妊娠中にもかかわらず海を渡って新羅(しんら)をうち、降伏させて筑紫に帰り、応神天皇を生みました。これによって百済(くだら)と高句麗(こうくり)もはじめて帰服しましたが、皇后はやがて大和に帰って応神天皇を皇太子にたて、70年余り政治をとって、269年に死んだことになっています。
この新羅に出兵したという有名な物語は、後生、香椎宮をはじめとして、志賀海神社・住吉神社・筥崎宮・宇美八幡宮などの皇后にまつわる多彩な伝説の源泉となり、それからさらに再発展した小伝説が、わが郷土いたるところに伝えられていますが、このような話の源流にさかのぼれば、神功皇后云々も多くは仮託の話であって、真相は筑紫の国設定と相前後する、近畿王朝の対朝鮮関係の発端の説明が、つい勇ましすぎる話になってしまったのではないかといわれています。
今日、中国や朝鮮の史料によれば、四世紀の末(391年)わが国が、半島の任那(みまな)・百済・新羅などを、近畿王朝が中国へ使者を遣わす経路として、これを確保しておく必要から出兵し、高句麗・新羅・百済などと和戦の折衝をかさねたことは、疑う余地のない事実でありましょう。(「好太天碑文」の解釈については諸説ありますが)これを仮に、神功皇后の三韓出兵の物語の種であるとするならば、皇后凱旋ののち、宇美で安産したと伝えられている応神天皇が、近畿王朝初代の大王として、やがて朝鮮と交流し、中国に使者を送り、海外の文物・技芸を輸入し、大いに王朝の勢威を伸ばし、文化の発達に力を致したという記紀の伝説も、半ばは史実によるところあると考えられます。